仕事の志
京都外国語大学 スペイン語学科卒業後、外資系医薬品会社に就職し、国際貿易事業部の営業として働きました。華やかな舞台での仕事に大きなやりがいを感じていましたが、一方で、その業務は「裏方」の支えなしには成り立たないことを実感しました。世界130か国からの引き合いに応じて輸出を行うためには、開発途上国からのL/C(信用状)の解読や買取といった複雑な事務作業、さらには物流手配など、多岐にわたる業務が必要でした。
お客様の要望を受け、必要な商品を探して仕入れ交渉を行い、見積もりを作成する。さらに、輸出梱包について現場スタッフと打ち合わせ、ときには自ら梱包作業に携わることもありました。こうした業務を通じて、同僚たちが支えてくれるからこそ仕事が成り立っていることを痛感し、自分は業務のほんの一部しか担っていないと気づきました。
特に、大型貨物の船舶ブッキングは専門性が高く、非常に難しく感じました。また、劇薬に分類される医薬品や診断薬の輸出にも携わり、細心の注意を払う必要がある仕事も経験しました。こうした経験を重ねるうちに、どのような品物であれ、受注から納品、為替予約、原価計算まで、一貫して自分自身で手がけなければ満足できないと感じるようになりました。(ヘキストジャパン株式会社 国際事業部時代)
そして、医薬品業界からファッション業界へ――全く異なる分野への転職を決意しました。
原風景
雑誌ブランドと契約し、ファッションバッグの企画・製造・販売を手がける中堅企業へ転職しました。バブル経済が崩壊に向かう時代でしたが、若い経営陣と社員が集う会社は、まるで毎日が学園祭のような活気に満ちていました。
ライセンス契約したブランドのコンセプトに基づき、優秀なデザイナーたちがバッグのデザインを描き、それを外部委託の製造企業のサンプル職人とともに形にしていきます。
私は「作り手」ではありません。しかし、製造工程への関心が人一倍強く、サンプル職人や量産職人の仕事場を頻繁に訪れ、モノづくりのロジックを体で覚えていきました。当時はバブル景気の影響で商品が不足するほど売れていましたが、一方で職人の高齢化や若手育成の課題があり、次の時代を見据えた取り組みが求められていました。
そんな中、東南アジアに自社工場を設立するプロジェクトに参加する機会に恵まれました。まずは香港やシンガポールの製造工場を絞り込み、外注での生産管理からスタート。そして2年後、29歳のときにシンガポールに自社工場を設立し、4年間赴任しました。工場はバッグメーカーと財布メーカーの技術者、そして資本参加による合弁会社として運営されました。
経営とは、ニーズのあるものを企画し、製造・販売すること。その大半は機械と人の手によって生み出されます。私は技術者とともに、現地の素人社員を指導し、日本市場で販売できる品質の高い革製品を作れるようにしました。モノづくりは「定点」、それを魅力的な商品へと変えて販売するのは経営者の仕事です。
この経験を通じて、製造に関する材料の買い付け、貿易実務、生産管理のすべてを経験できたことが、その後の仕事に大いに役立ちました。(アディロン株式会社・Adiron Singapore Pte. Ltd. 時代)
経験した事
東南アジアの外注工場は、中国からタイへと広がっていきました。1995年頃から私はタイという国に惹かれるようになりました。当時は日本とタイの関係について深く知ることはありませんでしたが、現地で仕事をするうちに、まるで日本人と仕事をしているかのような感覚を覚えました。例えば、特に謝る必要がない場面でも「アイム・ソーリー」と言うタイの人々の姿勢は、日本人の「すいません」と似ていると感じました。
タイの取引先とは、まるで長年の友人のような関係を築くことができました。その頃に出会った人々とは、今でも25年以上の付き合いが続いています。
その後、勤めていたアディロン(株)で担当していたプロジェクトが頓挫しました。しかし、どうしてもこのプロジェクトを続けたいという思いから、2006年にフリーランスとして独立しました。当初は、革製品製造メーカーの仲間たちの仕事を手伝いながらアルバイトをして食いつなぐ日々。それでも、思いがけないチャンスが巡ってきました。
それは、経済産業省が実施する海外ビジネスミッションという大きなプロジェクトでした。当時は「チャイナ・プラスワン」が流行語となっており、私はタイとベトナムを対象としたミッションを企画しました。東京の革製品製造メーカー20社が参加し、その時に出会ったタイのサハ財閥(タヌラックス)との仕事が、私の人生を大きく変えることになりました。もしあの時、サハ財閥とのご縁がなければ、今の私は存在していなかったかもしれません。
使命感
業界でお世話になった職人の皆さん、そしてタイをはじめとする協力工場のすべての方々に感謝の気持ちを込めて、私はライフワークの一つとして「タイと日本の架け橋」となることを使命としています。それぞれの強みを活かしながら、商売を発展させ、起業や企業、人と人をつなげることに尽力しています。
タイには、首都バンコクのほかに76の州があり、さらに全国には7,255の村が存在します。これらの村には、それぞれの特産品があり、タイでは「OTOP(オートップ)」と呼ばれています。私は2009年に出会った仲間がこのOTOPプロジェクトのデザイナーを務めていたことを、2022年のコロナ禍の中で初めて知りました。彼のデザインをタイの製品に取り入れ、日本向けにカスタマイズして紹介することで、タイの人々への恩返しをしながら、日本のユーザーには新しい文化と芸術を含めた価値を届けています。
OTOPは、タイ政府が日本のJICAに協力を要請し、推進してきた国家的なプロジェクトです。そして2024年5月には、タイ文化省が推進するCPOTプロジェクトにも関わるチャンスをいただきました。私は、1612年に静岡県からタイ(当時のシャム)へ渡り、世界初の日本人会の礎となる「日本人村」を築いた山田長政のように、勇敢かつ商才に長けた武士の精神を大切にしながら、この取り組みを進めています。
OTOP : One Tambon One Product
CPOT : Cultural Product of Thai