なぜタイなのでしょうか?

第一章 タイと出逢うまえの時代

 タイ国は日本から1800km離れた遠い国の一つです。なぜわざわざタイで籠バッグを作るのでしょう。タイ以外にも天然素材(主に湿地帯で生える植物)を用いてカーペット、バッグ、身の回りの調度品を作る国はたくさんありますね。

 タイの仲間と仕事をするきっかけとなったのは2009年2月に開催した経済産業省のプロジェクト「タイ・ベトナムビジネスミッション」の仕事を引き受け、東京の革製品製造企業20社とバンコクへ行きました。

 バブル崩壊後の低価格競争に巻き込まれる形で日本の革製品製造企業は中国へ製造拠点を移す会社も多く、現地の工場を協力工場として位置づけ、材料を輸出して現地で組み立てる会社も多かったです。

 私自身も当時勤めていたアディロン(株)の海外生産を任され、香港・シンガポール・中国の工場に生産を委託し、いわゆる海外生産管理チームで働いていました。アディロン(株)は年商100億まで昇りつめた中堅規模の会社でした。1885年から1888年は当時西ドイツの医薬品総合企業(ヘキスト・ジャパン株式会社)の国際貿易事業部に勤務していました。世界中にあるヘキストグループへの化学品や医薬品、果てはヘキスト・タンザニア社に日産やトヨタのランドクルーザーを輸出する仕事もしていました。

 アディロン(株)が「中途採用を募集している」ととある先輩から教えてもらい、業務内容をみると「高齢化する日本の革製品の職人」の平均年齢が60歳を超えて、このままだとモノづくりができなくなる。当時はまだバブル真っ只中。東南アジアの製造工場を外注にして製造する仕事を立ち上げる人を求めています」という内容でした。「これは面白そうだ」という気持ちで転職しました。

 1991年から1995年の4年間アディロン・シンガポール株式会社の代表取締役として駐在し、工場長には佐藤輝男さんを迎えて未経験者を中心に社員を募集して技術指導を始めました。なぜ未経験者だったかというと、「癖」のついていない人が欲しかったからです。中途半端に経験した人は「癖」が身についていて、「修正」することが難しいと経験したのが理由でした。自動車に例えるとオートマチック車ではないクラッチ方式のマニュアル車では、クラッチの切り替えのタイミングが人によって「癖」がつき、クラッチに「癖」がついてしまうものなのです。ミシンも同じです。ミシンは足踏みタイプではなく電動ミシンの時代でしたが、針の送り動作は回転軸をクラッチで調整するため、人によって「癖」がつくということを日本の職人さんたちの仕事を通して経験しました。型紙の切り方、下仕事と言われるパーツ作り、接着剤の塗り方、ヘリ返しの折り方などすべての工程で人の「癖」がついてしまうものです。確かに、ほかの工場で仕事の経験のある人は、即戦力として雇うことはできたでしょう。前述の佐藤工場長の考え方を全面的に理解し、私は責任者として未経験者を募集する事に決めたのでした。

 シンガポールに小さな工房を作り、マレーシア、インドネシア、中国に協力工場を持ってモノづくりのOHQといて日本を中心とした市場へ革製品を供給するという大きなテーマがありました。

 その後バブル崩壊とともにアディロンは外資系ファンドに身売りすることになるのですが、1995年に駐在が解け東京本社に戻ったころ、タイには皮革産業があり、ヨーロッパやアメリカとビジネスをしていることを知りました。これがタイとの最初の出会いでした。

 その後、チャイナ・プラスワンという言葉が生まれ、中国以外の国に生産拠点を求める動きが始まりました。2006年にアディロン株式会社を退職し、フリーランスとなった背景は外資ファンドの方向転換やファンドの株価操作による企業乗っ取りの動きによりそれまで担当していたプロジェクトがとん挫したからでした。担当していた「仕事」を続けるためにフリーランスとして仕事を続けることにしたのです。

 いま思えば、「大変な事ばかりで、何事もなかったことはなかったね」というのが正直な感想です。しかし、大変な事に向き合っていると仕事が舞い込んでくる幸運に恵まれました。三菱商事の繊維事業部から声がかかり、チャイナ・プラスワンというテーマでインドの袋物その他雑貨の工場の商品を取り扱うために調査してほしいという仕事でした。当時安定した収入はなく、いくつかのアルバイトを掛け持ち本来自分がやりたい仕事を細々と続けていましたので三菱商事からの仕事のオファーはとても感激しました。