台東区デザイナーズビレッジ

なぜ台東区の浅草や御徒町に革小物職人や宝石店が集まっているのか史実を参考に考えた。史実については一部ウィキペディアのフリー百科事典より引用した)

  • 江戸幕府の始まった1603年は現在2021年からさかのぼる事418年前であった。仮に現役健康寿命を50歳と仮定すると7~8世世代前の事であり思ったほど大昔ではない。現在の千代田区に江戸城があり今の皇居へとつながった。江戸城は別名千代田城とも呼ばれていた。
  • 時は更にさかのぼり1457年(564年前)に麹町に扇谷上杉家の家臣が立てた平山城が築133年の1590年(431年前)に徳川家康が入居したと言われている。家康はその13年後に徳川幕府の初代将軍となり天下人となり琉球(沖縄)と蝦夷地(北海道)を除く全国を支配した。
  • 1639年(382年前)に「鎖国」体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成した。それまでの海外との交流の多くは中国などアジア諸国であった。鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態、外交不在の状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。
  • キリスト教信仰国のスペイン、ポルトガルからの来航禁止した。武田信玄が50歳の歳の1571年に戦いを仕掛けられたが、武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。軍令に関しては重臣・石川数正の出奔により以前のものから改める必要に駆られたという事情もある。天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保すると、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせている。
  • 浅草「浅草寺」は東京都内最古の寺であり、多くの人の信仰を集め、江戸時代の初めに徳川家康により、幕府の祈願所に定めらた。 幕府の祈願所であった浅草寺は庶民の信仰も厚く、多くの人に親しまれたお寺であった。 江戸時代に入ると、それまでの長い戦乱時代落ち着き、庶民の暮らしも落ち着きを取り戻し人々の暮らしの中にも演芸を楽しむゆとりが出てきました。

【学び】

 政治を司る千代田区の江戸幕府と東京都内最古の浅草寺が江戸の象徴となり、浅草寺のある浅草、元浅草に小さな寺が集まってきたことは歴史的事実である。元浅草は台東区にあり、

江戸時代初めの頃より寺院の多く集まった地域で「新寺町」と通称され、さらに明暦の大火の後、本郷湯島などからも寺院が移転して数を増やし、その各寺院の周りに門前町が作られた。明治以降は細かく分かれていた門前町がまとめて編成され、1934年(昭和39年)の住居表示の実施により元浅草が町名に採用された。

 元浅草と名付けられた由来、地名に「元」が付くのはその地名の発祥地もしくは各街道町の最も都側(上り)である場合が一般的とされているが、元浅草の場合は旧下谷区と浅草区の境目、浅草繁華街の西の初め(元)に由来している。

 小さな寺で必要とされる仏具( 仏教 の 儀式 で使用される 日用品 とは異なる特殊な 道具 、あるいは 僧侶 などの 聖職者 が使用する 装飾品 の事である。 法具 、 法器 )を製造して納める職人の町が生まれ、仏具屋が商売するためにニーズのあった仏具に関する装飾品の作り手は小間物職人と呼ばれ浅草、吉原、柳橋、黒門、湯島、根津に集まったことから、御徒町に宝飾職人が集まり現在でも宝石店が集まっていることを思えば、台東区が仏具を中心とした小物作りが発祥となり現在でもその仕事を家業として継承する中小の会社が現存していると理解できる。

 明治時代に入ると宝飾品へのニーズが高まり宝飾品販売会社が御徒町に集まり、現在の台東区のモノ作りの「雰囲気」の源になっているような気がする。現在で言うところのモノ作りワークショップへとつながっているのではないかと思う。

 台東区の一大イベントの「モノマチ」は古くから製造/卸の集積地としての歴史をもつ台東区南部エリアのモノづくり関連企業が参加して、モノづくりの楽しさを発信し、このエリアの魅力を知ってもらうためのイベントです。台東区がモノ作りを支援する一つとして若手デザイナーの創作場所として旧小島小学校を提供している。モノマチ実行委員会の集まり場所としてひとつひとつの教室がデザイナーのアトリエとなっていて、モノマチが一つの発表の場にもなっている。

 一つの私なりの結論として、江戸時代のお寺との関係から生まれた小間物(現在の小物)を作る職人が今でも家業を続けていることにより「モノ作り」の空気が流れその雰囲気が漂っているのだと感じる。

 皮革製品以外にも様々なモノ作りが盛んである。私は今回のプロジェクトの第一に皮革製品(革財布)を取り上げているので、なぜ台東区に皮革製品製造企業が現存しているのかを知っておく必要がある。

  • 墨田区(隅田川)と台東区(荒川)の豊富な水は革の鞣し工程に必要な資源として最適であった。その川資源の「水」を原皮の洗浄や染料を染み込ませるための原液に用いた結果、輸入原皮に頼らない「豚革」を製造することで革の供給地となった。そしてさの周りに豚革や輸入原皮を鞣した牛革を素材として使用し皮革製品を作る職人の町が出来上がった。
地名 特徴
台東区 隅田川と荒川の周辺で革の製造と製品が発展した
「皮革産業資料館」は一般公開されています
長嶋茂雄さんのスパイクも展示されています
和歌山県 軍隊用の靴の製造地として革の鞣し産業が現存
エナメル革の開発の先駆け
有田川の水源が鞣しに適している
兵庫県姫路市、たつの市 両市を流れる「揖保川」が水源となり鞣しが発展
牛革の生産量は東京を抜いて全国一番
※そうめんで有名な揖保の糸もたつの市にある
兵庫県豊岡市 「コリヤナギ」という落葉低木を乾燥させて「籠」を
作っていた技術が鞄の「枠」を作る技術に転用された