インタビューの内容

(アルニー先生が孫娘について話しています)

孫娘はここで働いてパッタルンに住んでいることを嬉しく思っています。時折、バンコクで展示会があることもありますが、可能であれば彼女はパッタルンに居続けたいと言っています。


これらの籐製の手工芸品は次世代に残すための遺産です。これは私がラーマ9世のクィーン・シリキットからこのノウハウを受け継いだようなものです。私は彼女に約束しました。この知識を伝え、一生この仕事を続けると。なぜなら、私は王陛下の陛下からこの遺産を受け継いだからです。


そして、この知識を愛する次世代の人々、そして望む人々のすべてに公開し伝えるていきます。私はやる気のある人すべてを心から歓迎しています。私の寿命がどれだけ続くかわかりません。だからこそ、次世代に続けてもらう必要があります。


籠バッグは私たちのコミュニティの製品なのです。ほとんどの村人がクラジュードで働いており、この村にはクラジュードにかかわらない人は誰もいません。これは私たちの職業です。これは新しく出来たついでの仕事ではないのです。これが私たちの主要な職業で生きていくための糧となる命をつなぐ大切なしごとなのです。


クラジュードバッグによる収入により、私たちの村は少しづつ潤ってきました。私たちは1日にマットシート(絨毯)を20〜30バーツで編み、1日2枚のマットシートで収入が50〜60バーツになり、それは昔においては私たちにとってはかなりの額でした。それでも私たちはこれを続けています。なぜなら、昔の生活費が現在ほど高くなかったからです。しかし、今では生活費がかなり上昇しています。製品のデザインを開発しなければなりません。マットセット、帽子、プレイスマット、ランニングテーブルなど。その後、ラーマ9世のクィーン・シリキットが「フア・パ・ケーオ」に行かれたとき、私はそこに行って陛下に会い、クラジュードの製品を差し出しました。


誰かが尋ねた、「なぜそんなに勇敢に陛下に会いに行くの?」と。私はただ陛下が人々を助けるためにとても親切だと思っただけです。陛下は私に「私の一員になりたいか?」と尋ねました。なりたいなら、もっと知識を学びに行かなければなりません。私は躊躇しませんでした。私は陛下に約束しました。それは西暦1999年の出来事でした。


私は知識と技術を学ぶ一方で、その間にパッタルンの地元の知識センターの講師にもなりました。私はこの知識を誰にでも伝えました。今でもどの家庭もクラジュードの織り技術の知識を持っています。そしてその頃からクラジュードのバッグの開発が始まりました。私はパッタルンでこのスキルを伝える最初の教師でした。バーニクラフトもまた地元の知識センターに行ってこれらを90時間基本スキルとして学び、私が彼女の教師でした。今、彼女の子供たちは製品デザインの卒業生です。


だから今の彼らのほうが私よりも優れています。しかし、私はとても誇りに思っています。