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SCHEDULE

MEETING ON MAY 12 (10:30~13:00)

PLACE : CALL TANASHI

ADDRESS : 3-7-2 Tanashi-cho, Nishi-Tokyo-shi, Tokyo 188-0011, Japan TEL : 042-469-5006

DATE (2024/2567)ACTION
MAY 6KICK OFF MEETING WITH MR.SATO KIMIO
CHIEFE EXECUTIVE BOARD MAMBER
(Komeito Nishi-Tokyo City Council member)
MAY 7PREPARATION-1
CONFIRMATION OF GUESTS’ NAME AND TITLE
MAY 8PREPARATION-2
MAY 9PREPARATION-3
MAY 10PREPARATION-4
MAY 11 (AM)THAI FES. (10:00-12:00) GREETING
MAY 11 (PM)PREPARATION OF MEETING AGENDA
MAY 12 (AM)MEETING (10:30~13:00)
NARITA AIRPORT (15:00)
FLIGHT TO BKK ( )
MAY 12 (PM)GENERAL MEETING OF NISHI-TOKYO CULTURER & ART PROMOTION ASSOCIATION TO REPORT ON THE MEETING WITH CPOT MEMBERS
MAY 20REPORT TO CPOT

なぜタイなのか?

第一章 タイと出逢うまえの時代

 タイ国は日本から1800km離れた遠い国の一つです。なぜわざわざタイで籠バッグを作るのでしょう。タイ以外にも天然素材(主に湿地帯で生える植物)を用いてカーペット、バッグ、身の回りの調度品を作る国はたくさんありますね。

 タイの仲間と仕事をするきっかけとなったのは2009年2月に開催した経済産業省のプロジェクト「タイ・ベトナムビジネスミッション」の仕事を引き受け、東京の革製品製造企業20社の参加者と共にタイで合同展示・商談会を行ったことでした。

 バブル崩壊後の低価格競争に巻き込まれる形で日本の革製品製造企業は中国へ製造拠点を移す会社も多く、現地の工場を協力工場として位置づけ、材料を輸出して現地で組み立てる会社も多かったです。

 私自身も当時勤めていたアディロン(株)の海外生産を任され、香港・シンガポール・中国の工場に生産を委託し、いわゆる海外生産管理チームで働いていました。アディロン(株)は年商100億まで昇りつめた中堅規模の会社でした。1885年から1888年は当時西ドイツの医薬品総合企業(ヘキスト・ジャパン株式会社)の国際貿易事業部に勤務していました。世界中にあるヘキストグループへの化学品や医薬品、果てはヘキスト・タンザニア社に日産やトヨタのランドクルーザーを輸出する仕事もしていました。

 アディロン(株)が「中途採用を募集している」ととある先輩から教えてもらい、業務内容をみると「高齢化する日本の革製品の職人」の平均年齢が60歳を超えて、このままだとモノづくりができなくなる。当時はまだバブル真っ只中。東南アジアの製造工場を外注にして製造する仕事を立ち上げる人を求めています」という内容でした。「これは面白そうだ」という気持ちで転職しました。

 1991年から1995年の4年間アディロン・シンガポール株式会社の代表取締役として駐在し、工場長には佐藤輝男さんを迎えて未経験者を中心に社員を募集して技術指導を始めました。なぜ未経験者だったかというと、「癖」のついていない人が欲しかったからです。中途半端に経験した人は「癖」が身についていて、「修正」することが難しいと経験したのが理由でした。自動車に例えるとオートマチック車ではないクラッチ方式のマニュアル車では、クラッチの切り替えのタイミングが人によって「癖」がつき、クラッチに「癖」がついてしまうものなのです。ミシンも同じです。ミシンは足踏みタイプではなく電動ミシンの時代でしたが、針の送り動作は回転軸をクラッチで調整するため、人によって「癖」がつくということを日本の職人さんたちの仕事を通して経験しました。型紙の切り方、下仕事と言われるパーツ作り、接着剤の塗り方、ヘリ返しの折り方などすべての工程で人の「癖」がついてしまうものです。確かに、ほかの工場で仕事の経験のある人は、即戦力として雇うことはできたでしょう。前述の佐藤工場長の考え方を全面的に理解し、私は責任者として未経験者を募集する事に決めたのでした。

 シンガポールに小さな工房を作り、マレーシア、インドネシア、中国に協力工場を持ってモノづくりのOHQといて日本を中心とした市場へ革製品を供給するという大きなテーマがありました。

 その後バブル崩壊とともにアディロンは外資系ファンドに身売りすることになるのですが、1995年に駐在が解け東京本社に戻ったころ、タイには皮革産業があり、ヨーロッパやアメリカとビジネスをしていることを知りました。これがタイとの最初の出会いでした。

 その後、チャイナ・プラスワンという言葉が生まれ、中国以外の国に生産拠点を求める動きが始まりました。2006年にアディロン株式会社を退職し、フリーランスとなった背景は外資ファンドの方向転換やファンドの株価操作による企業乗っ取りの動きによりそれまで担当していたプロジェクトがとん挫したからでした。担当していた「仕事」を続けるためにフリーランスとして仕事を続けることにしたのです。

 いま思えば、「大変な事ばかりで、何事もなかったことはなかったね」というのが正直な感想です。しかし、大変な事に向き合っていると仕事が舞い込んでくる幸運に恵まれました。三菱商事の繊維事業部から声がかかり、チャイナ・プラスワンというテーマでインドの袋物その他雑貨の工場の商品を取り扱うために調査してほしいという仕事でした。当時安定した収入はなく、いくつかのアルバイトを掛け持ち本来自分がやりたい仕事を細々と続けていましたので三菱商事からの仕事のオファーはとても感激しました。

THE・REMAKERとは

NEW PRODUCTS reborn as frech and clean product

Content of interview

(Arun teacher taking about her Grand daughter) She is happy to work here and live in Pattalung. Sometime we are participating in the exhibition in Bangkok but sahe says, if possible, she wants to stay in Pattalung, because she loves this place and workmate.


Yes, These wicker handicraft is our legacy for next generation. It was like me received this know how from Queen Sirikit in Rama 9th King.

I promised to her that will transfer knowledge and keep this job to whole of my life. Because I received this legacy from Her Majesty of the King.
And I will succeed this job to the next generation or anyone who wants to have this knowledge. I am very welcomed to open my experience and techniques to all of those who are interested in learning it.

The life is one time and all living things will pass away someday, so I will keep making the bags until the day I close my life.


These are community’s products. Almost of our villager are working on Krajood. And no one no Krajood in this village. It is our occupation. It is not our additional career, but it is our main career and inpayable job.
Krajood bag business had made a lot of income to our village.


We are weaving the mat sheet and sell it about THB20 to 30. The income of sales 2 mat sheet a day was about THB50 to 60, which ‘was’ good enough in the past, and we could continue to work on these. Because the living cost in the past was not so high as present.

Now the living cost is rising and struggling in life sometimes. We have to develop the design of product, like mat set, hat, place mat and running table. Then after,The Queen Sirikit in Rama 9th King went to “Hua Pa Keaw” I went there to meet Her Majesty and offered some products of Krajood.


Somebody asked why I am so brave to meet Her Majesty? I just think Her Majesty has been so kind to help her peoples. Her Majesty asked me if I wanted to be a member of Her Majesty? If I want I have to be there to study more knowledge. I do not hesitate. I was committed to Her Majesty. It was 1999, 25 years ago and that’s the starting point of my professional artisan.


I was studying the more knowledge and skill, and meantime, became a lecturer of the local knowledge-center of Pattalung. I opened these knowledge to all good minded students. Until now every house had knowledge of Krajood weaving skill. All the family began to develop Krajood bag at that time.

I was the first teacher in Pattalung to populize the technique of this skill. Even “Varni Crafts” that is other company of Krajood bag also entered the local-knowledge-center and the students were graduated from my 90 hours program successfully.

I am her teacher and I’m proud of Varni Crafts, because now her children graduated from design shcool to continue the business.
Theie technique and quality seem better than me now that they have been grown up, and it’s my pride to nurture the next generation.

インタビューの内容

(アルニー先生が孫娘について話しています)

孫娘はここで働いてパッタルンに住んでいることを嬉しく思っています。時折、バンコクで展示会があることもありますが、可能であれば彼女はパッタルンに居続けたいと言っています。


これらの籐製の手工芸品は次世代に残すための遺産です。これは私がラーマ9世のクィーン・シリキットからこのノウハウを受け継いだようなものです。私は彼女に約束しました。この知識を伝え、一生この仕事を続けると。なぜなら、私は王陛下の陛下からこの遺産を受け継いだからです。


そして、この知識を愛する次世代の人々、そして望む人々のすべてに公開し伝えるていきます。私はやる気のある人すべてを心から歓迎しています。私の寿命がどれだけ続くかわかりません。だからこそ、次世代に続けてもらう必要があります。


籠バッグは私たちのコミュニティの製品なのです。ほとんどの村人がクラジュードで働いており、この村にはクラジュードにかかわらない人は誰もいません。これは私たちの職業です。これは新しく出来たついでの仕事ではないのです。これが私たちの主要な職業で生きていくための糧となる命をつなぐ大切なしごとなのです。


クラジュードバッグによる収入により、私たちの村は少しづつ潤ってきました。私たちは1日にマットシート(絨毯)を20〜30バーツで編み、1日2枚のマットシートで収入が50〜60バーツになり、それは昔においては私たちにとってはかなりの額でした。それでも私たちはこれを続けています。なぜなら、昔の生活費が現在ほど高くなかったからです。しかし、今では生活費がかなり上昇しています。製品のデザインを開発しなければなりません。マットセット、帽子、プレイスマット、ランニングテーブルなど。その後、ラーマ9世のクィーン・シリキットが「フア・パ・ケーオ」に行かれたとき、私はそこに行って陛下に会い、クラジュードの製品を差し出しました。


誰かが尋ねた、「なぜそんなに勇敢に陛下に会いに行くの?」と。私はただ陛下が人々を助けるためにとても親切だと思っただけです。陛下は私に「私の一員になりたいか?」と尋ねました。なりたいなら、もっと知識を学びに行かなければなりません。私は躊躇しませんでした。私は陛下に約束しました。それは西暦1999年の出来事でした。


私は知識と技術を学ぶ一方で、その間にパッタルンの地元の知識センターの講師にもなりました。私はこの知識を誰にでも伝えました。今でもどの家庭もクラジュードの織り技術の知識を持っています。そしてその頃からクラジュードのバッグの開発が始まりました。私はパッタルンでこのスキルを伝える最初の教師でした。バーニクラフトもまた地元の知識センターに行ってこれらを90時間基本スキルとして学び、私が彼女の教師でした。今、彼女の子供たちは製品デザインの卒業生です。


だから今の彼らのほうが私よりも優れています。しかし、私はとても誇りに思っています。

インバウンドの歴史と”これから”

  1893年(明治26年)に渋沢栄一先生が作った「喜賓会」は訪日外国人をもてなすことを目的とし、海外の要人を多数招聘し向かい入れたそうです。

  もてなす心は今も変わらず、自国に伝える役割の要人は今でいうインフルエンサーですね。旅行案内書を作ったそうですが、現代のTime out Tokyoその他SNSを通じた発信とやってることは同じなんですね。明治時代には革財布の写真をアルバムにして売って歩いたと記録されている東京元浅草の老舗革財布メーカーがありますが、現代のWEB販売とやってることは同じなんですね。温故知新。

1964年 (昭和39年)  観光目的の渡航自由化 (22万人が渡航した)
1970年 (昭和45年)  経済成長に伴い豊かになった日本人の国内旅行戦略へとシフトした
           大阪万博に85万人が訪れた
1971年 (昭和46年)  22万人のアウトバウンドが96万人に増えて渡航する人が
          インバウンド85万人の約1.3倍に増えた
1995年 (平成7年)   アウトバウンド1530万人はインバウンド335万人の約4.5倍にまで増えた
2002年 (平成14年)  日韓ワールドカップサッカー大会開催
2003年 (平成15年)  ビジット・ジャパンキャンペーンが国策として始まった
2013年 (平成25年)  目標としていたインバウンドが1000万人を超えた
2015年 (平成27年)  インバウンドが1973万人7000人となり大阪万博以来渡航者を上回った
2016年 (平成28年)  インバウンドが2000万人を突破した
2019年 (令和元年)    庚子(かのえね)は変化の大きい60年に一度の年 新型ウィルス発生
2020年 (令和2年 )    パンデミックが世界を襲った インバウンドは411万6000人に減った
2021年 (令和3年 )    インバウンドは24万5900人に減った
2022年 (令和4年 )    6月に団体旅行解禁 10月に個人旅行解禁
2023年 (令和5年 )    3月にビジット・ジャパンキャンペーンを延長。3つのスローガンを追加
          ◇ 持続可能な観光地作り
          ◇ 消費額拡大 (一人の消費額目標を20万円にした。総額5兆円規模)
          ◇ 地方都市への誘致拡大
          観光立国復活基盤強化(130億9400万人) + インバウンド回復に向けた
          戦略的取り組み(170億5700万人) その他を含んで307億円を目標にした
2030年                   インバウンド6000万人(15兆円規模)を目標に決めた             
現在の取り組み   文化資源を活用したインバウンドの為の環境整備
          ◇ インバウンド相談窓口の増設
          ◇ 国立公園を活用したインバウンドの為の環境整備
          ◇ 戦略的な訪日プロモーションの実施
          ◇ 円滑な出入国の環境整備
2019年度(パンデミック前)はフランスに来た人(8900万人)に対し日本に来た人)3200万人)
日本に来る人を増やすにはまだまだ伸びしろがあると「国」は考えている

スペイン(8300万人)アメリカ(7900万人)と続く
イタリア(6400万人) トルコ(5100万人)メキシコ(4500万人)タイ(3900万人)に続いている日本

インバウンドが来る国には「魅力」があるに違いない
イタリア人がスペインにバカンスに行く
フランス人がイタリアにバカンスに行く
ヨーロッパとアジアの接する地中海のトルコは通貨安がインバウンドを増やす要因のようだ

アメリカやヨーロッパからメキシコに行く、タイに行く
暖かくて、陽気な人たちと物価が安いイメージだが、円安ニッポンはそれらの国を訪れたインバウンドたちにとって「新しい国ニッポン」となり、国策の誘致キャンペーンによって今後確実に入国する人が増えると言われている。

具体的な行動計画を考えましょう

① 情報収集
② ターゲットの明確化
③ 現状把握
④ 自分たちの魅力を発見する
⑤ ビジネスを組み立てる
⑥ 情報発信
⑦ 検証と改善の繰り返し

注目していること

インバウンドビジネスにかかわっている企業の動きに注目すること

外国の旅行会社が販売しやすい観光コース(宿泊・買い物・食事など)の情報収集を日本で行って
海外の旅行会社に伝える「営業職」の採用が活発であることを知っておく

海外の旅行会社は日本のインバウンド戦略に注目していて、日本へ行かせる魅力的なプログラムがあればチケットや宿泊地を「販売しやすい」ので情報を欲しがっている=ニーズ

自分たちが「売りたい」サービスやモノを海外の旅行会社に売り込む発想は正しかった
営業マンが自分たちを見つけ出してくれるのをまつのではなく、自分たちから発信して伝え、
「知ってもらう」ことが出来たら、外国の旅行会社が私たちのところへ旅行者を送り込んでくれる仕組みが出来ている

インバウンドへの発信は大切だが、インバウンドに伝える外国のの旅行会社への発信には、ほとんどコストがかからない。

大事なことは、
自分たちの魅力を発見して、来たいと思って来てくれたインバウンドが満足するとっておきの
サービスを英語を通じてもてなすことだ

兵庫県三木市出身の「玉岡かおる」さんによる書き下ろし

 高砂市高砂町に1743年に漁師の家に誕生した松衛門さん、後に幕府より工楽という名を与えられ工楽松衛門と呼ばれた発明家の一生を知るための一冊と出逢いました。全国各地の仕事に呼ばれ択捉の防波堤建設に携わり、広島の鞆の浦の防波堤も作ったそうです。その地は現在も美しい湾曲として宮崎駿監督のアニメのイメージになっていると言われています。

 松衛門さんが牛頭丸少年だったころ、牛頭丸少年が友達の千鳥さんという女の子と過ごし、千鳥さんの弟の新三郎少年が海の事故で幼い命を失ったこと。松衛門さんが仕事に導かれるようにその後松衛門帆と呼ばれた帆船の帆を作ろうとしたこと。すべては牛頭丸の持つ周りの人に対する天性の思いやり、相手の気持ちを察そうとする心の余裕が読み取れます。

 仕事は探すものではなく、「呼ばれる」という話を聞いたことがあります。まさに今から280年前の史実からもそれを感じることができます。自分で仕事を選んだと言う前に、仕事に呼ばれたと考える。そして、それが好きならば続けていく。それが自分の仕事となり社会の役に立つのであればそんな贅沢な生き方はお金では買えない価値だと思います。未来はコントロールできませんが、過去の史実の感じ方次第では過去に起きたことすら自分の未来に影響を与えることができるような気がします。そんな余裕のある考え方があれば人は幸せに暮らすことができるのではないでしょうか。そんな一冊になるような気がします。

 神戸市にある石碑には苦楽松衛門と名を残しています。苦楽を共にすると言えば280年後に生きる子供たちにも伝わる言葉だと思います。2023年4月15日㈯に本が届きました。画像も新しく作り直しました。高砂から大阪へ高砂の木綿を届ける航海の時にカモメと出逢ったのではないかと想像して作りました。本を少しづつ読ませて頂きます。

「玉岡かおる」さんの著書をイメージして松衛門帆と革を用いたブックカバーを商品化する企画をスターしました。どこの誰と組んで開発するかは4月23日に可能性のある職人さんと打ち合わせを行います。進行状況については随時報告させて頂きます。お楽しみに!!

【続く】

タイ・フェス行ってきました

 渋谷駅から徒歩20分。代々木公園駅から7分。さて、どのコースで行くか。いきなりの悩み勃発。渋谷は駅前の再開発で近寄りがたい感じがしていた。今回は初の千代田線代々木公園から行くことにしよう。

 代々木公園駅は深い地下から地上に這い上がり、雨の上がった薄曇りの空の下で乳母車に子供を乗せてパパとママが楽し気にどこかへ向かう背中を追って、着いて行く。代々木公園駅から代々木公園をググルと7分の距離が表示された。ここまでは間違ってない。

 私はググっても、たいが道を間違える。こういう明らかに家族連れがタイ・フェスに向かっていると思われるときは「ついて行く」のが正解だ。交差点を左折し緩やかな登りの路る左手は代々木公園の外堀で中の様子は想像できないが、道を挟んだ右側はレゴブロックのようなボタンが身に飛び込んできた。「でかい」

 まっすぐ歩いていくと正面に大きな陸橋がかかっている。右から左へ、左から右へ人が歩いている。この橋の左右の公園にタイ・フェスがあることはまず間違いない。今回は道も間違えず最短ルートで到着した。と思っていた。。。。

 陸橋まで来たら、ほとんどの人が左の公園に入っていく。私も左の公園に入った。ベンチでタイのお弁当を食べている見るからにタイ人の二人連れ。この近くにタイ・フェスがありタイ料理の屋台があるに違いない。と思っていた。。。。

 しばらく歩くと、日本人若手男性のストリートミュージシャンが歌を歌っていた。タイ・フェスに来る人を狙って小遣いを稼ぎに来ているなと横目で見つつ、まもなくタイ・フェスの会場が現れるだとろう。と思っていた。。。。

 念のためググってみたがタイ・フェスまでの距離が7分のままだ。代々木公園駅から7分はすでに終了した。公園入口から7分歩いてしまったのか。深呼吸をして自分に言い聞かせる。代々木公園にいることは間違いない。タイ・フェス運営ページにも「代々木公園内」と記載されていた。ああだこうだ心配するのはやめて、森林浴を楽しむというテーマに変更してそろそろタイ・フェスが現れるだろう。と思っていた。

 とうとう、公園は端っこまで来てしまった。ドッグランコーナーがあった。犬を連れてきて囲いの中で首輪を外して走らせる強制的な自由活動だが、犬たちはどこか楽しげだ。犬は無邪気でいい。私は、もはや無邪気に森林浴を楽しんでいると言える立場ではない。すでに30分くらい半信半疑の旅を続けている。そうだ、「京都へ行こう」の感じで「運営局に電話しよう」簡単に教えてもらえるとだろう。と思っていた。

 電話に出てくれた女性に、「タイ・フェスに向かっていて今代々木公園の中の、ドックランの近くにいます。ここから行くにはどの方向に行けばいいですか。」女性は「ドッグランの場所は分からないのですが、タイ・フェスの看板は出ていませんか」ここからは少々複雑な会話になるのでポエム風にお伝えします。

登場実物 : タイ・フェスに行きたい中年のマンゴー太郎
運営事務 : タイ・フェス常連アルバイトだが代々木公園事態には興味がない若いサワディ花子

「近くに目立つ建物はありませんか」(マンゴー太郎)
「イベント公園にあります」「大きな道の近くです」(サワディ花子)
「大きな道の近くですね」「今いるところは公園の端なので入口まで戻ります」(マンゴー太郎)
「陸橋の近くにあります」(サワディ花子)

~~~そうそう、それが来たかってん~~~~

代々木公園を時計の逆回りに歩いて半周。入口まで戻る決心をして万歩計を確認するとすでに7235歩。歩きすぎた。このような時はいつもこう受け止めることにしている。

目的地まではまだ距離があるけど歩いて運動しながら足の筋肉量をつけてください(代々木の神)

15分くらい歩いてやっと入口の陸橋についた。いつも逆を行ってしまう悪い癖が今日も出てしまった。公園の入り口に地図の看板があった。ちょっと外れた位置なので見落としていた。陸橋の階段を上がって道の向こう側にイベント公園があると分かった。長い旅だった。山口百恵さんの「サヨナラの向こう側」には何があったのか。マンゴー太郎の「陸橋の向こう側」にはタイ・フェスがあった!!

 ここまで来るのに1時間以上費やした。日曜日のほうが天気がいいので日曜日に来場客が多くなるのではないかと、薄曇りの土曜日の午後に賭けた。いやいや、雨も上がり涼しいので土曜日も人気の日だった。「タイの好きな日本人」「日本の好きなタイ人」「見タイ、食べタイ、飲みタイ、遊びタイ」というタイ・フェズで見かけるキャッチコピーは緩くて好きだ。

 どのブースに行っても長蛇の列。昔タイの友達に聞いたことがある。「早く効率的に」という発想はタイにはないのですか。はい、「ありません」(大爆笑) 暑い国ののんびりした生き方はむしろ日本人は見習ったほうがいいかも。イベントのゴミを集めるゴミ回収場所があったので、それは運営局の管理によるものであろう。日本人とタイ人が共同で企画準備しなければ実現しない規模だ。やはり食べ物は大人気だ。

 今回の目的はタイの工場の協力で進めている籠バッグの販売場所として魅力があるかどうか。また価格帯を調査することだった。今年で23回目のタイ・フェスは全国各地で開催されているので、出展者は旅慣れている業者と見受けられた。ここで販売するには様々の種類の商品を幅広く、奥行きをもって見せなければ商売にはならない。それでも平均価格やお祭りのお土産としてお客さんが手に取るものにはどんなものがあるのかじっくり観察できたので無駄ではなかった。

1時間以上歩いたので、汗ばむ。のども乾いた。タイのシンハービールを売っていた。
「飲みタイ」でも「痩せタイ」それでも「飲みタイ」
今日は我慢する。仕事だから

大笑いしたのは、タイマッサージのブースだ。一列に並んで通行人に「観られる」強制的な舞台のカーテンコールのよう無名の役者たちの恍惚の表情は通行人の目を惹く。10分1000円。1000円カットも10分1200に値段が上がった。感覚的にちょっと安い感を出している。成城石井などの高級スーパーで販売しているマンゴーは@600(税別)だが、ここでは税込み@500だった。チェンマイのナイトバザールの写真もついでに載せておこう。日本に入ってくるマンゴーの2倍以上のサイズ。THB60 = @220。日本に輸入されているサイズに変換すると@100くらい。チェンマイのタクシードライバーのTAMさんの副業のマンゴー農家からの仕入れ値が安すぎて儲けがでないと嘆いていた話を思い出した。。。

最後に、感想と今後の展望をお伝えします。

①タイ・フェスは日本人にとって人気の高いイベントであることは間違いない
②タイ大使館(日本)やDITP(タイ)の連携と国策として輸出促進のため経済的支援されている
③タイブームが日本人に浸透し友好関係が長く続けばタイ製品をもっと身近に感じてもらえる

企業としてのミッションは

仕入れルートを確立し、現地プロジェクトメンバーの下調べ(バンコクの展示会リサーチ)を進め(2023.5月)、製造工場がある北マレーシア(南タイ)へ出向いてオリジナル製品の開発会議を行い、発注してくる予定だ。

手仕事をする人々のストーリー性は十分。
なんでもSNSでデジタル画像で済ませるところ
一冊@198 (24ページ)のフォトアルバムを作り
タイの人が出来ない日本語での制作を行います
販促アルバムとして値段が高いけれど
製品コストに組み込みます

日本語で販売元やネットで販売することも入れて
それをその工場に1冊プレゼントする

以上を持ちまして、タイ・フェス調査に関する報告と致します。

兵庫県高砂市 (株)御影屋のすごいすと

2023年4月2日 日曜日 午前8:00

マイスタ加古川のネットワークで知ることになりました。葛飾北斎が生まれる少し前に活躍した先輩です。全体図を作りましたのでご覧いただけますか。モノづくりに携わる企業・人を組織図風に作りました。

それぞの分野の専門職の皆さんとの仕事を計画し小さく始めて繰り返すプロジェクトを始めます。

北斎の愛した富士山と松右衛門帆の発明した帆布が御影屋さんによって出逢いました。【続く】

STAY SMALL 【実務的応用編】

【第一の課題】

 小さく弾力性があって失敗しない皮革製品を作るには、どうしたらいいのか。
仕事の質を重んじ顧客を増やしていった会社に勤めていたが、ある時から会社は質より量を求め始めた。顧客がリピートすることなく減り、この仕事は自分に向いていないと考え退職するが、その後退職した私の事を探して新しい勤め先へ仕事の依頼が舞い込んだ。
独立して自分が目指す小さな会社を作れば自分の目的と仕事を一致させることができると気づいた。独立すればすべて解決する、それが確実に前進する唯一の道だというメッセージを絶えず受け取る時代だが、これがすべての人にとっていちばんの選択肢だと思わない。
独立して働いていれば、給料、福利厚生、研修を処理してくれる人事部はない。
お金の出し入を管理したり、売掛金を回収してくれる経理部もない。
お金を稼ぐメインの仕事に加えて他の作業もすべて自分でやらなければならないのだ。

 メインとなる仕事(デザイン・開発)に割く時間は半分かそれより少ない。他の時間は販売ルートの開拓研究と経営にあてている。独立して働くには、エゴと目的の両方が同じだけ求められる。独立した理由は働いていた会社よりもうまく顧客との関係を育むことができると思ったからだ。そしてここで言う顧客はデザイン会社のプロデューサーを始めデザイナーたちである。またデザイナーたちのデッサンを私が製品化した暁には購入する人々が顧客として待っている。つまり私は国内外の製造に係わる資材メーカーから材料を仕入れて製品化するために私の持っているスキルをすべて提供して具現化するということだ。この仕事がフリーランスとして船をこぎ始めた最初の目的になった。

 専門スキルでいちばんになる事ではなく、(そもそもそんなことが可能なのかわからない)顧客との関係に焦点を合わせたビジネスを経営することが目的になったのだ。
自分ならもっとうまくできるという類のエゴだ。うまくできるかどうかは、どうでもいいと思っていた李するなら独立する意味はない。ただ苦労するだけだ。お金があって会社を設立しただ代表取締役という「名刺」が欲しい人はそれはそれで良いと思うが、スキルがない人は現場に口出しせず、高度なスキルを持った現場のスタッフに実務は任せて社長は経営に専念し中長期的な経営課題を周知徹底し、従業員が走り続けられる持続可能なスピードに合わせて、課題を与えモチベーションを維持するだけでよい、私はと考える。

 2020年に始まったコロナ禍症候群によりインバウンドが消え、消費低迷する百貨店販売やライセンスブランドのうさん臭さに築き始めた成熟に達する速度が遅い日本人消費者の気づきも消費低迷に拍車をかけている。要は、良かった時代にすべき準備を怠り今更新しい取り組みをはじめる気にならない企業も存在するという話で、もちろんそうでない皮革製品製造企業は苦戦しながらも製品化した品物を直営店であったり、オンラインで販売できている。

 目的が必要なのは、ずっとそこにあって、長期的にあなたを導いてくれる北極星がなければならないからだ。すぐにお金持ちになることやビジネスの世界で有名になることは長期的なモチベーションにはならない。お金持を稼いだり有名になったりしたいのなら、皮革製品を職人さん達と作って販売するより、もっと簡単な方法がほかにある。


 どうして独立して働きたいのか。たいへんな時や思っていたよりも時間がかかる時に、それでも続けようと思えるのはなぜか。会社経営にともなう日々の雑事に追われながらも、それをつづける価値をどこに見いだすのか。自分に合わないと感じた仕事はや顧客は断って収入を減らす選択ができるのはうれしい。上から仕事を回されるのではなく次の仕事を自分で選べるのもうれしい。土曜日に働いて水曜日に散歩いて一日過ごすのもうれしい。この選択の自由が私の北極星だ。そして、独立を決定した最大の理由は体力に自信があったからだ。個人事業であっても企業であっても責任者となると結果を残さなければ収入が途絶える。有給休暇など存在しないので、風邪をひいて休んだら最後、路頭に迷うことになる。

 何につけても、最初は大変だ。いずれにせよお金は必要だ。したがって、一番の顧客は必ずしも一番望ましい顧客ではなく、いまここにいてお金を払ってくれる顧客だという時もある。それでも、選択の自由という目的があるおかげで、困難な状況でも前に進むことができる。独立することが最終目的とはかぎらない。小さな会社自体が独立的な仕事をする環境である場合もある。所属する組織の中で専門スキルを磨き、時にはリーダー、時には仕事仲間として共同で仕事を進める弾力的で素晴らしいキャリアを築くのがあなたの道かもしれない。ビジネスの成功や楽しみに、みんながとるべき唯一の道があるとは思えない。

【解決案】

 

【自分のスキルを使って人の手助けをする

 顧客もファンもいない状態で明日、ゼロからビジネスをはじめようとしよう。どのようにして、関心を持ってくれる人を集めればいいのだろうか。どうすれば顧客を惹きつけることができるのか。多くの人が、このような状態からビジネスをはじめるらしい。自分の持っているスキルを踏まえて、そのスキルを探している人や、すでにその手のスキルを使っている人の話を聞くとこから始める。どうやってそのスキルを探しているのか、そのスキルを使って何か不快な思いをしたことがあるのなら何が問題だったか。新しいプロジェクトを始める前に知っていたらよいことは何か。
 無料で提供するこの手の手助けは一ケ月も時間がかかるわけではなければ、丸々の仕事をば占めるわけでもない。メールでやり取りしたり、対面、電話、ズームミーティングで会話するだけだ。ようするに、無料のコンサルティングやプロジェクト計画セッションを提供するのである。知識を提供する相手をひとり見つけるところから始める。それからまたひとり見つけて出来るだけ多くの人と話はみんなが抱えている問題や理解していない点についての傾向がはっきり見えてくるまでそれを続ける。

【それによって得られること】

 ふたつのことが可能になるらしい。
第一に私が一緒に仕事をしたい種類の人たちと(お金、見返りを求めることなく)知識を共有する機会ができる。第二に顧客になる可能性のある人が何を求めていて何に困っているのか、どうすれば効果的にコミュニケーションをとって問題解決を手助けできるかがわかる。
ものを売りはじめるずっと前からなんにかの手助けをして人と関係を築く。販促のためやものを売るために関係を築くわけではない。関係を築いて育むのは、その人たちから学び続けるためである。これは、互いにとって利益になる関係だ。彼らは私から手助けを得て、わたしは彼らの知識を得る。この聞き取り調査はミニ・コンサルティングはどこか別のところで(おそらくフルタイムで)働きながら行う。これはとても重要なことだ。持続的に生計を立てられるように実行に移せるアイデアかどうか、まだわからないからだ。
そこから道はいくつかに分かれる。

具体的な自分流のやり方を決断できるか

 ここからは完全に私の個人的な計画だ。2009年に開拓したタイ国のサハグループの皮革製品製造企業を始め、個人経営に近い中小企業の皮革製品製造販売会社の事業後継者の一人であるタイ人をはじめ、サムトプラカン地区のタンナーから最優秀タンナーを絞り込み私の計画を伝えプロジェクトに参加してもらうことだ。デザイン会社のプロデューサーの仕事を行うためにリサーチしたバンコク在住のフリーランスは使い古した自動車のタイヤ、着古した革ジャンなどを素材としてリサイクルするビジネスで製品化と商品販売まで実現した。

 2009年に行ったタイ国ビジネスミッションで大変お世話になったタイ国大使館商務部との関係も続けてきた甲斐があり、2021年にタイ国の宝飾品オンライン商談会で宝飾製造企業と話し合い、私の基本プランを説明することができた。2020年の緊急事態宣言による自宅勤務となった頃から、週末に情報収集をし始め、大使館からもらった宝飾品製造企業リストから100社以上にメールを送り、返信が届いた8社とコミュニケーションを続けた結果、今回オンライン商談が実現した大手企業が私の大事なサプライヤーリストに含まれる1社であることを知った時には心底うれしかった。日本では老舗というのだろう。その宝飾品製造会社は2020時点で操業127年。前述のサハグループの工場と私の大切なローカルスタッフの自宅から車で30分という近距離にあり、ビジネスが現実になればいつでも行き来できる近い関係であることも後から知った。革の鞣し工場は排水問題があるためサムトプラカン地区に集約されていて、バンコク市内からは車で60分はかかる。これはいたし方ない。

 私には大勢の社員を雇って会社を登記し売り上げを目指す気持ちは最初からない。STAY SMALLが基本であり、最低限の収入を持っているフリーランス仲間を募り、それぞれのスキルを活かした上で売り上げの半分は次の仕入れに必要なお金として再投資に回し、残りを参加メンバーでそれぞれの仕事の貢献度によって分け合うのが基本プランである。日本からタイ国に海外送金することも昔に比べると容易・安価になったことは助かる。Western Union Bankに登録し数万円程度の送金は手数料@2,000で行えるとタイ国の宝飾品製造会社のマネージャーから教えてもらい送金手続きは整った。現地パートナー二名のうち特に管理面を任せているキティに一元管理ほ任せ、必要に応じて資材メーカーからの仕入れ代金を支払ったり、日本に郵送してもらう運賃の支払いをしてもらう事になった。もちろん、キティに頼む雑多な仕事の手数料としても適正なギャラを支払うことになった。

 人員体制として私とタイ人2人のたった3人であるが、私たちのスキルは製品を作るクラフトマンとしてではなく、ビジネスプランを創出することであると三者のオンラインミーティングで確認した。工場には作る事を専門とし、手先の器用な人々が大勢待機している。私たちはその人たちに製品を作る仕事を創出するのが使命であると。

 もう一人の彼はOTOPというタイ国が世界に向けて発信する「一村一品」プロジェクトにデザイナーとして参加していることを今回のオンラインミーティングで初めて知った。皆私より若く精力的に活躍しているのでたとも頼もしい。

 別のページで「地産地消」について簡単に触れたが、元々は2009年のタイ国ビジネスミッションのテーマであった、海外市場への日本製品の販売会社であった。東京のみならず、全国に皮革製品というと固いイメージだが、日本にそれなりに長い歴史のある副産物としての鞣した革で様々な製品を作って生活に利用する市場があり、様々な分野で製造業を営む会社がたくさん存在する。それらの企業の経営者に直接私の考えるビジネスプランを説明し、タイ国で催事販売を行って販売する当初のプロジェクトをアフター・コロナに仕掛ける準備を開始したと思って頂ければほぼ正しい。

 タイ国の百貨店での催事条件まだは確認した。革の鞣し業が盛んで皮革製品が日常品になっているタイ国では日本の皮革製品といういつのくくりは良い響きであるらしいが、タイ製品のコストは安く、価格勝負になると掛け率による手数料もあるので利益を生むことは至難の業であると考えた。

 100万円の売上を作る為に、国内の製造会社から仕入れ、物流費を支払い、タイ国で輸入関税を支払うと日本の小売価格に対して140%位になってしまう。また、何が売れるかわからないで、何カートンも輸出するのは怖い。売れなければ再輸入し、再検品し元の状態でなければ誰かが責任を取って買い取らなければならなくなることくらいはすぐにわかる。100万円売上であっても百貨店へ場所代を35万円~40万円払うことは確認できた。私は香港のA.P.L.F.やイタリアのMIPELなどにクライアントの出展で直接携わった経験があり、特注の什器パネルを一から作ったこともあるので、どれだけお金がかかるかは確実に把握している。

 現在のところ最も現実的に出来そうなのは、現地に住む日本人駐在員を中心に、多国籍企業に勤める日本人の紹介で所謂外国人駐在員を対象に日本製品を紹介するパーティーを開催するプランである。その為には外務省所管の現地の日本人会を通じ、または現地の日本語タブロイド紙、またはオンライン新聞等で広告する必要があることくらいは分かる。コロナ禍で分かったことは帰りたくても日本に帰る事が出来ない日本人が世界中にたくさんいること。私自身もシンガポールで多少不自由な4年間を過ごした経験があるのでその気持ちは理解できる。最初は土日に適当なレストランを貸し切って100人くらいの駐在員かせ事前参加予約を頂いて、そのうち40人が人が来店し、そのう20人がが製品を購入してくれて、売り上げが50万円くらいが現実的ではないかと想像している。

 事前に人気投票を行ってあらかじめ購入予定まで押さえらると売上金額がより現実的なものになる。初回は多く利益を出すことは求めず、多少不便な海外生活をしている日本人に日本を感じてもらう「パーティー&皮革製品催事販売」が出来れば合格としよう。レストラン貸し切りと言っても予算の問題と集客の目途が立たない場合は、レストランのスタッフにお好み焼き、焼きそば、たこ焼き、ビール飲み放題になってしまうかも知れない。あまり後の事の心配ばかりしていても仕方ないので、それも選択肢の一つとしよう。

 日本の製造企業には製造コストと利益を含めた代金を支払い、残ったお金で旅費を含む物流費、食費などを捻出し、赤字なならなければ合格という目標である。欲しい品物が分かり、適正価格で販売できる、そのような催事を年に二回程度実演するとそれを楽しみにする日本人がいるとしたら成功とするのだ。

 タイ国は一つのお試しとし、これが成功したら旅費、物流費の安いアジアの近隣諸国に広げる計画。いきなりアメリカやヨーロッパに行ったりはしないが、その国でやる気のある人が、日本人でも現地人でも良いのであるが、いたら話は進めれる。つまり、成功パターンが現実に起きるかどうかの実験である。最大の成功としては、100万円の売上を達成した時の食費が15万円以内に収まることだ。掛け率としては85%なのでこれは日本国内の催事販売でも実現の難しいとても良い水準だ。

 タイ国の場合物価指数が日本の半分またはそれ以下なので15万円の食費で何が出せるかなどについてはキティのリサーチで調べることになる。